機材なんてなんでもいい?

「機材なんてなんでもいい」「写真の良し悪しは機材じゃない」

とかくよく聞く言葉だ。果たしてそうだろうか?写真は機材があって初めて成立する世界だ。様々なカメラやレンズがあるからこそ人それぞれの感じ方と表現が存在する。この手の発言には自分の写真は機材に左右されるようなケチな写真ではないという傲慢さが潜んでいるとしか思えない。

写真とは被写体があってこそ、機材があってこその世界だ。決定的瞬間の作品を自分がモノにしたという態度の写真家が居るがそれは大きな勘違いだ。写真とはいくら自分に能力があっても機材や被写体、そしてそこに立ち合わせてもらった運がある。そういう自分以外のコトやモノに対する敬意と感謝の気持ちが無ければ作品などと呼ぶのはおこがましい。

自分のブログは機材名を明記している。R-D1から始めたブログ当初から機材名を明記するようにしている。人によっては何の目的で機材名を明記するのか?自慢して何になるのか?写真の本質とは全く関係のないことだ。とバッサリ切り捨てて、自分はそんなことに関係なく作品を残しているという態度の御仁もいる。それは自分には出来ない。機材に申し訳ない。

このブログで機材名を明記しているのは機材自慢でも機材情報の提供のためでもない。自分自身の機材に対する愛情と感謝の気持ちからだ。仕事を通じて機材にも魂は宿ると感じている。そうして接しなければ良い瞬間には出会えないと信じている。機材に拘ったからと言って必ずしも名作が生まれる訳ではないが少なくとも優れたフォトグラファーたちはみな機材にも特別な拘りとリスペクトがあったはずだ。

機材に愛情を持たずに何が作品か。

LEICA M-P / Thambar 90mm f2.2 @Kakunodate20170424

LEICA M-P / Thambar 90mm f2.2 @Kakunodate20170424

3200 kelvin magic

室内撮影がフィルムで行われていた時代。タングステンフィルムは魔法のカプセルだった。

デイライトフィルムでは赤被りが酷いタングステンライトの照明下でも適正な補正がなされ、空間系カメラマンにとっては無くてはならないフィルムだった。翻ってデジタル時代、ホワイトバランスというお作法が当たり前になり、フイルム時代の不便さは過去のモノとなった。

皮肉なことにその時代に身についた体験が今では自由なデジタル表現に繋がることになろうとは・・夕暮れ時の日常の光景をもその時々の自分が感じたままの色彩で写し撮ることができる時代。これからも表現のための技術は進化し、自由なイメージはさらなる広がりを見せるのだろう。

表現の進化はヒトが生きている限り止まる事はないと思う。

LEICA M10-P / Thambar 90mm f2.2

LEICA M10-P / Thambar 90mm f2.2

ヨシダナギ女史の撮影法

先日、クレイジージャーニーという番組で女性写真家のヨシダナギさんをゲストに彼女のアフリカ青の民族「トゥアレグ族」との交流と撮影が描かれていた。内容自体は以前にも彼女がアフリカのとある民族を訪ねて撮影をする内容と基本変わらなかったが、あるシーンで目が釘付けになった。

モデルになってくれる数人の男性に太陽を背に逆光で象徴的な位置に立ってもらい、それぞれポーズを付けていざ撮影になった。彼女の機材はニコンの一眼レフ(おそらく標準ズーム付きD810?)を三脚に据えてProfoto A1をオンカメラ用とオフカメラ用2台でライティングし、シャッターを切っていた。

出来上がりの写真を見て唸った。普段はストロボ否定派でどうしても人工的な光になってしまうことが嫌で、またそうならない為にはかなりの準備とそれなりの出費が必要で自分には縁のないことと考えていた。彼女の作品を見る前までは・・・その作品がコチラ。逆光の中、上手く光を回してポージングも完璧、彼らの凛々しい表情とバックの美しい風景と相まってどこか別の惑星?と思えるほど美しい作品になっていた。

不遜な言い方だが他人の作品に滅多に影響を受けることは無いのだが、自分でもこんな作品を撮ってみたい!と衝動に駆られてしまった。聞けば彼女は独学で写真を学び、技術的なことは自分はそれほど詳しい訳ではなく、ただ、こんな風に撮りたい!と思っているだけだそうだ。久しぶりに他人様の作品と撮影法で刺激を頂いた。

LEICA X2

LEICA X2

感謝の意味

「CP+のステージに立つことが夢だった。ここが写真家としての最高のステージ。ここに居る全てのスタッフに感謝。」

才能豊かで素晴らしい風景写真を撮り、ブレイクする前から類稀な才能に注目していた写真家の言葉だ。違和感以外に無い。何のために風景を撮り、誰に伝えたいのか?そして何を残したいのか?今一度自分が写真を撮る意味を考え直したほうが良い。

メーカーや代理店のご都合主義で苦労して撮った作品を乱用され、PRに担ぎ出され、身勝手なコマーシャリズムに利用され、有名人になったかのような錯覚を持たされ、用が無くなれば使い捨てられ、忘れられていく。こんなこともその渦中に居ると気付かず、冒頭のような言葉を吐いてしまう。

CP+のステージに立つな、という意味ではない。節度を持って立ち、自分の目指すべきものを見失わずに発言してもらいたいものだ。言葉は言霊とも言う。驕りや勘違いは発する言葉から始まる。本来、感謝すべきは素晴らしい作品を撮らせて頂いている大自然とそこに立ち合わせて頂けた幸運ではないだろうか?そして何よりその作品を愛して下さった方たちではないだろうか?

LEICA Q

LEICA Q

開放で捉えたイタリア

昨夜、高橋俊充氏の写真展に伺った。イタリアのスナップとクリエイターたちのポートレイト、そしてゼラチンシルバープリントによるモノクロ銀塩プリントと盛り沢山。さらに超絶クオリティの写真集「ITALIA SNAPS 2010-2017」。写真集はやはり予想以上の出来栄えで、装丁の考え方、細やかなデザイン、写真のクオリティ、これほどの写真集にはなかなかお目にかかれない。

高橋氏の撮るイタリアのスナップ。個人的に特に好きな作品は35mmや50mmレンズで被写体を中間距離で捉えた開放描写での作品群。近づき過ぎずに適度な距離感で捉えた被写体の周囲を包む前後のボケが生み出す空気感。ピントの合った被写体以外の描写の曖昧さが見る人にイタリアの空気を感じさせる。さらに北陸育ちの色彩感覚とも言える抑えた彩度と強めのコントラストが氏の独自の世界観を創り出している。

その世界観が見事に表現されているのが今回の写真集。期待以上の出来栄えで手に取る度に唸ってしまう。表紙と裏表紙にもその開放描写での作品が使われている。例えれば高名な美術館での貴重な作品カタログ並みの出来。一般の出版社が作る並みの写真集ではこれほどのクオリティは体験できない。それにも増してこの写真展と写真集に関わるほぼ全ての費用が自前ということ。

真のクリエイターは本来自分の目指すべき世界を実現する為にはスポンサーやパトロンなどに気を遣わず、思い通りに創ることが理想であり、それが結果的には良いモノを生み出すことに繋がると思う。サポートされることが当然と考える昨今の一部のプロたちにも少しは見習って欲しいものだ。ちなみにこの写真集、二冊購入して一冊は写真集として、一冊は一枚一枚を額に飾る写真としても成り立つほど印刷クオリティが高い。おそらく氏はそんな使われ方には同意されないと思うが・・・

LEICA Q

LEICA Q