HONDA F1 PROJECT

数日前、F1ファンの間で激震が走った。ホンダのF1プロジェクトが2021年の来シーズンで参戦終了というアナウンスがあり、その直後からSNS上ではホンダへの誹謗中傷、罵詈雑言の嵐となった。批判内容のあまりの酷さにさすがに気分が悪くなった。ある方のツイッターではあまりのショックに「悲しみを超えて怒りになってしまっている」と。確かにそんな状況だ。今まで長きに渡って多くの感動を我々に与えてくれたことは無しに等しい発言がほとんどだ。

冷静によく考えてもらいたい。F1はそもそもヨーロッパの自動車文化から生まれ、現在もメルセデス、フェラーリ、ルノーが中心でホンダは異端という立場は初参戦の時と変わらない。八郷社長は表向きは前向きなビジョンを語っていたがあれは建前で実情はそうではないと思う。あの発言だけを取って批判することは今までのホンダの貢献を蔑ろにする行為だ。

そもそもホンダのF1プロジェクトは本田宗一郎氏の頃の第一期のチャレンジから現在の第四期のチャレンジまでコンセプトは変わらない「F1は走る実験室でそこから生まれた技術を市販車にフィードバックする」だ。さらにエンジンサプライヤーとしての参戦自体は広告宣伝効果以外のメリットはない。当初から利益を度外視した姿勢は他のヨーロッパのコンストラクターとは異なる姿勢だ。

ゆえに参戦を繰り返すこと自体を非難するのはこのあたりが理解できていないということだ。冷静に見れば利益を考えないプロジェクトマネージメントはかなり問題はあるが自動車文化後発のアジアから参戦するということはヨーロッパのメーカーと単純に同列で同じ土俵には上がれないということだ。今でもそう変わらない訳で目には見えないハンデは相当あるはずでそれは我々には計り知れないことだ。

それでもハンデを乗り越えて何度も何度もチャレンジして我々に夢を見させてくれたホンダを誇りに思う。中でも第二期の黄金期と評される16戦15勝!という空前絶後の記録もどれほどのファンが狂喜して感動したか。今回の撤退はその栄光まで消えるものではない。我々に数えきれない感動を与えてくれたホンダを感情に任せて短絡的に批判する資格は誰にもない。

マーケット的にもヨーロッパ圏での四輪販売数は北米の10分の1以下というのはよく知られていてF1は撤退してインディは続けるのか!という連中もそのあたりの事情も少しは理解すべきだ。その上、世界中に20万人以上の関連従業員が居て多くの株主も存在する。高級車志向のメルセデスやフェラーリ、ほぼ国営と言っていいルノーとは異なる言わば普通の自動車メーカーだ。レースはDNAと語るホンダにとって今回の決断は苦渋の決断だったと思うし、企業としては間違った判断ではない。

批判する連中はあたかもホンダが今すぐF1から撤退するかのような勢いの罵詈雑言の嵐だが来シーズンは継続される。まだチャンピオンの可能性もある。レッドブルやアルファタウリを裏切ったという輩も居るがF1界は水面下では何が起こっているかは一般人では計り知れない世界だ。また2022年以降のレギュレーションではエンジン開発が凍結される。走る実験室・人材育成を目標にするエンジンサプライヤーのホンダにとってメリットはほとんどない。

2チームとの契約も2021年まででビジネスモラル上でも何ら問題はない。徐々に分かってきた情報では随分以前からレッドブルもアルファタウリもホンダの撤退の事情を承知していたらしい。その上で今回のホンダの決断を支持している。シロウトの憶測と思い込みだけでSNSの勢いに任せて言いたい放題の文句を言っているのは日本人の無知なファンだけだ。もっと冷静になれ!と言いたい。

世界中を見渡しても利益を度外視して数百億のプロジェクトに果敢にチャレンジし、ファンに夢を与えてくれるメーカーなどどこに存在するのか?それが自国のメーカーなのだからもっと暖かい目で見守るべきだ。何度も参戦と撤退を繰り返して裏切られたと言う輩が多いがそれは全くの筋違いの言い分だ。自分は今まで半世紀以上に渡って多くの夢を与えてくれたホンダに感謝しかない。

何度もチャレンジして夢を与えてくれた自国のメーカー、ホンダにもっと敬意を持つべきだ。批判している彼らも冷静になれば来年の鈴鹿に多くのホンダファンと共に集まると信じている。もちろん自分もその中の一人だ。

写真は単玉!

今回の鈴鹿のカメラ。RX10M4とRX100M6で臨んだ。分かってはいたがここぞという場面ではこの手のカメラはやはり本格的な一眼には敵わない。いまさらF1マシンを真剣に撮る気もなかったのでコンパクトさだけがメリットだったこのコンビでF1観戦ついでに上手くいけば良いカットをという甘い考えが中途半端になってしまった。

写真は単焦点レンズに限る。特にプライベートではAFにズームレンズは全く萌えない。ズームレンズは素人かあるいは達人の為のレンズだ。仕事という限られた条件では仕事専用レンズとも言える。いずれにしてもズームレンズは人が思うほど安直なレンズではない。本音はライカにズマロン28だけでもいいと思っていた。

Q-Pよりもコンパクトで今の手持のレンズの中でもお気に入りで出色のズマロン。25年ぶりの鈴鹿の空気感にはこのレンズでと密かに考えていた。だがあいにく超大型台風が列島を直撃!鈴鹿に行くだけで頭は精一杯の状態。カメラのセレクトどころではなくなった。

レース本番日は台風一過の快晴!やはりライカを持っていくべきだったと悔やんだ。友人は潔くGRのみで鈴鹿へ臨んだ。結論はやはり単焦点の方が正解。天候が回復して抜けるような青空になったことも幸いしてGRのスナップショットはまさにリコーブルーの威力炸裂。やはり写真は単玉に限る。

せっかく台風の中、持参したので思い出づくりのため?本当に数少ないまともなカットからなぜかベッテルのカットばかり。本当はフェルスタペンを応援しにいったのに・・・。上のカットは鈴鹿のコースレコードでポールポジションを獲得した直後のもの。下のカットは疑惑のチェッカー!?53周のレースが52周目にチェッカーが振られた決定的瞬間!ワンデー予選&決勝のならではのカット!笑

今回はグランドスタンドV2席のため、目の前がチェッカーが振られるフィニッシュラインという幸運!座ったまま撮れたAF&ズーム全開のお気楽カット?

何度も言うが写真は単玉だ!

RX10M4

RX10M4

RX100M6

RX100M6

ハギビスとF1

先週末、過去最高勢力の台風19号(ハギビス)が関東地方へ刻々と迫る中、よりによって25年ぶりの鈴鹿のF1グランプリ観戦を予定していた。上陸とほぼ同時のタイミングで東京駅早朝発の12日から13日の観戦ツアーを申し込んでいたが新幹線の計画運休や鈴鹿サーキットのコンディション次第ではどうなるか全く予測できなかった。

あらゆる交通手段をシミュレーションしつつ、こんな非常事にF1などに行くべきか行かざるべきか迷いに迷ってさらに迷って結局ツアーがキャンセルになることを予想して前日の11日夜、友人と二人で自力で名古屋入りを強行した。過去見たことのない東京駅の激混みの中、友人の機転で席を確保、無事名古屋入りが出来た。その夜の名古屋は至って普通で平穏、拍子抜けした名古屋入りだった。

翌12日は台風の為、鈴鹿サーキットのスケジュールが全てキャンセルになり、2010年以来のワンデー予選・決勝のスケジュールになった。台風接近で名古屋の街も休業が相次ぎ、その為、12日はホテルで終日過ごす事になった。自宅に過去最高勢力の台風が近づく中、ホテルの部屋で入ってくる情報はテレビとSNSのハギビスの恐怖ばかり!これは本当に精神的に参ってしまった。

川越の自宅は入間川と荒川が合流する河川敷から数百メートルの立地!マンションの5階ゆえ避難や浸水の恐れはほぼ無いが駐車場の愛車が浸水の可能性があり、今回ばかりは相当な覚悟をした。12日夜、ハギビスが自宅近くを通過、タブレットで河川のライブカメラによる氾濫情報を見ながら、人生これほど恐怖と不安を感じて過ごす夜は経験が無かった。

翌早朝、自宅近辺がどうなったか不安を抱えながら快晴の鈴鹿サーキットへ入った。ちょうどサーキットのゲートを潜ると同時に相方どのからLINEが入り、自宅も駐車場も無事だったことを知り、安堵すると同時に鈴鹿の青い空がこれほど眩しく美しく見えたことは無かった。河川の氾濫もスレスレのところで回避、いつもは停電する自宅近辺も今回は全く停電しなかった。

台風一過、日焼けするほどの日差しの鈴鹿サーキット、台風の影響が若干残る風は心地よく、一日で予選と決勝が強行されたF1日本グランプリはレッドブルのエースドライバー・フェルスタッペンが早々にリタイヤ、約9万人が期待したホンダの表彰台を見ることは叶わなかったが25年ぶりの鈴鹿のF1はギュッと凝縮した忘れられない一日になった。

迷いに迷っていた自分の背中を押して鈴鹿へ送り出し、台風から自宅を守ってくれた相方殿に感謝すると共にこんな状況の中、強行に付き合ってくれた友人にも感謝したい。

RX100M6

RX100M6

小林彰太郎氏のこと

先日のカーグラフィックTVでカーグラフィック誌(CG誌)の創設者・小林彰太郎氏の生誕90年の特別企画を放送していた。小林彰太郎というと自分と同年代の車好きには有名な方で特に外国車のマニアには神様のような人だ。だが今の若い年代の車好きの人は必ずしも有名ではないらしい。何人かに氏のことを尋ねてみたがほとんど知らなかった。残念なことだ。

企画の内容は歴代のCG誌編集長やCG関係者の方々が小林氏の人となりを振り返りながら自分達がいかに氏の影響を受けたか、氏の哲学的で華麗な文章に影響を受けた大手自動車メーカー幹部が今でもいかに多いかを語っていた。中でもレースに対する情熱や晩年まで続いたヨーロッパの旧車への愛情の深さを語っていた。

実は小林氏とは血は繋がっていないが自分とは親戚関係になる。少しおこがましい気持ちだが相方殿の父親、つまり自分の義父が小林氏とは従兄弟同士の関係で若い頃から車や音楽などで親しくしていたそうで晩年まで親交が続いていた。小林氏とは義父の葬儀の折、最初で最後、ただの一度だけお会いしてお話をさせて頂いたことがある。

その時の話の内容は本田宗一郎氏のこととライカのことだった。自分が根っからのホンダファンだと伝えると小林氏はホンダS500試乗会からの本田宗一郎氏との関係、F1参戦時のことなどひとしきり本田宗一郎氏との思い出話を聞かせて頂いた。また、ホンダが初めてF1に参戦した1964年、自費で渡欧して日本人ジャーナリストとしては初めて現地取材をした時のことも伺った。

その中で撮影はライカを使用されていたことを知っていたのでそのことに触れるとカメラはバルナックライカのⅢfでレンズは50mmと90mmを使用して撮影されたことを懐かしそうに語って下さった。1960年代という海外旅行すら一般的ではない時代に渡欧し、ライカを携えながらホンダS600を駆ってヨーロッパのF1サーカスを転戦・取材を続けるなどモータージャーナリストの世界でもパイオニア的存在。

やはり小林彰太郎氏は後にも先にも不世出のモータージャーナリストだ。そんな方とほんのひと時だったが直接お話を伺える時間が持てたことは今振り返ると貴重な経験だった。ホンダが小林彰太郎氏を悼んで綴った追悼コラムからも氏の偉大さが分かる。

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6