写真と動画とRAWデータ

ブログの方が滞ってしまいましたが変わりなく生きてます。笑
ありがたいことに2月から3月にかけてお仕事の依頼が通常モードに戻ってしまった。戻ってしまったというのは不遜に聞こえるかもしれないが昨年のコロナ禍でのゆったりモードからいきなり通常モードへ戻すのは心身共になかなかにハードなので・・それでもありがたいことに変わりはない。

そんな中、2月にジンバルを使った少々変わった動画の依頼があり、これに向けて様々なシミュレーションをしていく中で今までのように仕事の写真とプライベートの写真という感覚で棲み分けて撮り続けていくことが変わってしまった。やはり写真と動画とは似て非なるものでしばらく動画脳でいると写真、特に対極にあるライカを全く使う気になれなくなった。

そんなことで久しぶりにブログに向かったがさて写真は?となった。そこで過去のM8、M9、M-Pで撮ったRAWデータを覗いてみた。便利なことに今はWindowsでも何もなくてもサムネイルのプレビューが可能で過去のライブラリにあるRAWデータの内容を確認しながらダブルクリックするとすぐさまCameraRawが開いて現像できる。

その昔、RAWデータだけは残しておいてソフトが進化した時にまた新たに現像ができるはずと言われていたがその通りになった。仕事のRAWデータは納品が終わればすぐに削除してしまうがプライベート、特にM8以降のデジタルライカのRAWデータは過去13年分を残してある。ということで過去のライブラリから今の気分で現像した桜と菜の花のお写真を。

LEICA M9 / Thambar 90mm f2.2 / 2010.0407 @Chidorigafuchi

LEICA M9 / Thambar 90mm f2.2 / 2010.0407 @Chidorigafuchi

写真の感性

いきなり不遜な言い方だが他人様の写真が自分の写真に直接影響を与えたことは今まで全くない。他の方の作品を素晴らしいとか、美しいとか、上手いなあとか、良いなあ、と感じることはあってもそれが自分自身の写真や人生観などを根本的に変えることは無い。ゆえにそういう意味では写真展に足を運ぶことも少ない。

自分の写真はむしろ写真の世界の外の世界の影響を受けている。構図や色彩は絵画やグラフィックデザインから、光の感じ方や物語性、人との距離感などは映画やステージから、目の前の光景の感じ方は先人の言葉や偉大な音楽や四季折々の自然界の理などから影響を受けている。

これは写真だけでなく一般的に言えることだが発する言葉や態度、生きる姿勢、人生観などはすべて自分の今までの経験値を超えることはない。ゆえに優れた映画や絵画、デザイン、音楽、自然美などで自身のこころが動いたこと、実際に体感することが自分をカタチ創ることだと思う。写真の感性もその土台の上にある。

実はプライベートでの写真を作品と呼ばれることが気恥ずかしい。作品としての写真というものに対しては妙に照れがあって作品性をガチで真剣に語るシーンが苦手。ゆえに自分はいわゆる写真家と呼ばれる人種とは全く別世界に生きていると感じている。大好きなカメラという道具で写真という目に見えるカタチで身の回りの事象を自分が美しいと感じた瞬間を記憶として残すこと。そのことにしか興味がないようだ。そこには他人様の評価は存在しない。

LEICA M9 / SUMMILUX-M 35mm f1.4 @20090925 M9 first shot

LEICA M9 / SUMMILUX-M 35mm f1.4 @20090925 M9 first shot

演算装置?

メディアアーティストの落合陽一氏がライカ使いということは以前から知っていたが最近の氏のYouTubeチャンネル「落合陽一録」でノクチルックスを彼らしい感覚・論理で語っていて非常に印象的だった。

氏はかなり多くの新旧ライカレンズをお持ちでその中でも50mmが好きで特にノクチルックスがお気に入りで初代f1.2の正しいレンズ?と不良品?の二本、球面タイプのf1.0、そして最新の非球面タイプf0.95の各一本、計4本のノクチルックスをお持ちらしい。

落合氏に依るとレンズとはアナログの演算装置というふうに捉えていて例えばオールドレンズの滲みや収差から来る写りをコンピュータで計算すると膨大な処理と時間を要する。そういう視点で言えばレンズを通った光をフィジカルに画像に変換するレンズは処理能力の早い演算装置だと。

また、初代f1.2の不良品はなぜか後玉が逆に付けられていてボヤボヤの写りの珍品で我々の感性からだと即売却対象になってしまう代物だが、それが演算と言う視点ではこれを再現するにはさらに大変なことであえてそういう写りのレンズは貴重で大切にしていると。これは目から鱗!

その他、色々と氏独特の論理はなかなか新鮮でこういう切り口でライカレンズを語った人は初めてだ。翻って自分はライカレンズをどう捉えているか?以前にも書いたが自分はライカレンズは人類の貴重な財産だと思っている。今のひと時だけ自分が預かってその時代の光を記録している。

いわゆるライカオールドレンズは様々な人の手を経て想像すら出来ない数の光を刻んでいる。最新のレンズは開発者たちの究極の写りに対する強い情熱が込められている。その分超が付く高価だが・・いずれも目には見えないが何かを持って今日まで生き続け、新たに生まれてきている。

落合氏に比べれば自分は非論理的で感傷的だがライカレンズはそう思わせる何かを内包していると感じている。それが自分の被写体へのアプローチに少なからず影響していることは事実だ。自分にとってのライカレンズは目に見えない力が作用する第二の眼だ。

LEICA M9 / NOCTILUX-M 50mm f1.0 @2011 SUMMER

LEICA M9 / NOCTILUX-M 50mm f1.0 @2011 SUMMER

ありがとう、イネちゃん。

昨日朝、闘病中だった三毛猫のイネちゃんが天国へ旅立った。昨年のお正月に腎不全を患い、それから一年半以上、ほぼ毎晩輸液を点滴し、毎朝チュールに混ぜた薬を飲ませ、事あるごとに検査や注射で通院し、何度も死にかけた。こちらも本当に大変だったがイネちゃんもよくそれに耐えて頑張っていた。とりわけ相方殿の苦労は尋常ではなかった。

8年前に里親募集で我が家に来て以来、残念ながら自分には全く懐かず、相方殿だけには懐いていた。そんなイネちゃんでも亡くなってしまって動き回る姿が見えなくなると寂しいものだ。ペットの死は何度も経験してきたが何度経験しても気分が落ち込む。今頃は7年前に旅立った先住猫でイネちゃんが大好きだったアメショーのミーと仲良くしていることだろう。

毎日毎日相方殿と二人で格闘した日々が今は懐かしく感じる。どんな形でも家族には違いはなかった。全然懐かずに年がいもなくイライラしたり、気まぐれで気が向くと擦り寄ってきたり、カメラを向けてもすぐにプイっと顔を背けたり、具合が悪くなってからは夜中に何度も泣き叫んだり、色々あったが今は家族で居てくれたこと、ありがとうと言いたい。

我が家に来たばかりの時のファーストショット。小さい時からとびっきりの美人さんだった。

LEICA M9 / Thambar 90mm f2.2

LEICA M9 / Thambar 90mm f2.2