2011年3月11日の記憶

あれから11年も過ぎてしまった。4年前にも同じものを記した。

今、コロナ禍が続き、ウクライナの惨状を見るにつけ、天災、人災、世界中で納まることを知らないかのように様々なことが起こっている。日本においても決して忘れてはならないことは繰り返し残しておきたい。人は忘れてしまう生き物だから・・・。

2011年3月11日のブログより「言葉がみつからない」

3月11日午後2時46分。私は届け物があって銀座1丁目のビルのエレベーターに乗り込む直前だった。グラグラと揺れを感じて思わず乗ることを止めてビルの外へ出てみた。

その直後、大袈裟ではなく銀座全体が大きく揺れ、生まれて初めて身の危険を感じた。行きかう人たちからも悲鳴が聞こえ、ビル内に居た人たちも次から次へと表へ飛び出てきて銀座は騒然となった。

道路やビルがあれほど揺れるのを見たことがなかった。まるで映画のワンシーンを見るような錯覚すら覚えてしまい、自分でもどこをどのように歩いていたのかあまり記憶が無い。

最初の印象はとうとう来た!という印象だった。長く大きく揺れてこのままもっと大きな揺れになって東京が壊れるのではないか?という恐怖感。

ワンセグを起動すると震源地は遠い宮城らしい。にわかに信じられなかった。てっきり東京近辺だと思った。それほどの揺れだった。その後も余震による大きな揺れは治まらず、正直生きた心地がしなかった。

その日は夕方に幕張で撮影があり、なぜか行かなければと思い、全面閉鎖された首都高や高速は使わず一般道で幕張へ向かった。

その後、続々と入ってくる情報でこれは本当に大変なことが起きた。と。撮影どころかこれから通過する浦安や目的地の幕張もどうなっているか分からないのでは?と感じて関係者へ連絡を試みたが繋がるのはツイッターのみ。

どうするか迷いながら運転をしていると奇跡的に担当者から連絡が入り、イベントも撮影も中止に決まった。その頃になると自分自身も少し落ち着いてきたのでどう対処するかを模索しながらとりあえず自宅へ帰ることにした。

大渋滞が予測される一般道しか道は無かったし、いつ着くかも分からなかったが刻々と入ってくるテレビの映像とツイッター情報でどういうことが起きているのかが把握でき、比較的落ち着いた気持で自宅へ向かうことができた。

結局、60キロの距離を約7時間かけて帰宅した。帰宅して改めてテレビで見た被災地の映像は信じられなかった。現実にこんな恐ろしいことが起きてしまうのか?という気持と次々に来る余震でその日は眠れなかった。

これを書いている今でも小さい余震は続き、いつも揺れている感覚から抜け出せない。落ち着いた精神状態が保てない。だがしっかりと日常を取り戻さなければと思う。

正直、被災地の方々への言葉は見つからない。自分自身これほど恐怖感とショックを受けたことも記憶にない。今は一人でも多くの人々が無事であることをただ祈るのみだ。