写真の感性

いきなり不遜な言い方だが他人様の写真が自分の写真に直接影響を与えたことは今まで全くない。他の方の作品を素晴らしいとか、美しいとか、上手いなあとか、良いなあ、と感じることはあってもそれが自分自身の写真や人生観などを根本的に変えることは無い。ゆえにそういう意味では写真展に足を運ぶことも少ない。

自分の写真はむしろ写真の世界の外の世界の影響を受けている。構図や色彩は絵画やグラフィックデザインから、光の感じ方や物語性、人との距離感などは映画やステージから、目の前の光景の感じ方は先人の言葉や偉大な音楽や四季折々の自然界の理などから影響を受けている。

これは写真だけでなく一般的に言えることだが発する言葉や態度、生きる姿勢、人生観などはすべて自分の今までの経験値を超えることはない。ゆえに優れた映画や絵画、デザイン、音楽、自然美などで自身のこころが動いたこと、実際に体感することが自分をカタチ創ることだと思う。写真の感性もその土台の上にある。

実はプライベートでの写真を作品と呼ばれることが気恥ずかしい。作品としての写真というものに対しては妙に照れがあって作品性をガチで真剣に語るシーンが苦手。ゆえに自分はいわゆる写真家と呼ばれる人種とは全く別世界に生きていると感じている。大好きなカメラという道具で写真という目に見えるカタチで身の回りの事象を自分が美しいと感じた瞬間を記憶として残すこと。そのことにしか興味がないようだ。そこには他人様の評価は存在しない。

LEICA M9 / SUMMILUX-M 35mm f1.4 @20090925 M9 first shot

LEICA M9 / SUMMILUX-M 35mm f1.4 @20090925 M9 first shot

MONOCHROME

Camerahollics Vol.3「鮮やかな、モノクローム」が発売日には届いていたが昨日サラッと目を通した。全編ほぼM10-M(モノクローム)特集!この特集でどれだけの方が購入してしまうのか?自分もその罠にハマらない自信はない。M10-Mは発売日当日に友人から実物を見せてもらい、そのあまりにも地味で素っ気ない外観に食指が動かなかった。自分はやはり軍幹部の筆記体leicaロゴが無いと満足しない派という一点だけでかろうじて留まっている。

モノクロームは歳を経れば経るほど奥深さを感じる。M10-Pの撮影設定は常にRAW+JPG撮影でモノクロームを現像する場合はCapture Oneで基本補正後にブラック&ホワイトの感色性6色をモノクロフィルタ感覚で補正、少し色味を加えたい場合はスプリットトーンでハイライトとシャドウの色相と彩度を補正してその時々のイメージに仕上げている。

この補正方法はカラー情報を持たないM10-Mでは物理的に使えない。M10-Mのユーザーが同様の補正をしたい場合はモノクロフィルムのカラーフィルタによるアナログ補正しかない。自分の場合はかなり細かく各色を補正するのでおそらくカラー情報を持つM10-Pの方が合っている気がする。ただし、M10-Mのモノクローム4000万画素の世界は覗いてみたい気がする。

モノクロームは色を持たない分、感じ方は人それぞれ。鮮やかな色を持った光景がモノクロームの持つ造形や光をストレートに伝える力によって違う価値が生み出されることは大きな魅力だ。車が買えるほど高価なモノクローム専用カメラを作ってしまうライカはある意味クレイジーだが、国産メーカーが短いサイクルで多機能過ぎるカメラをリリースし続けるのを見るにつけ、ライカは生き残る術を知っているように思う。

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6

デジタルデータの儚さ

先日、灯台のウェブサイトを作成した折、すべてポジフィルムからのスキャンデータで作成したが、実はデジタルカメラの時代に変わった後にも3か所の灯台を訪れていた。20年近く前なのでどのカメラで撮影したか記憶が薄れていて定かではないがおそらくEOS-D60かEOS-10Dだったと思う。そのデジタルデータがいくら探しても見つからない。

デジタルカメラのオリジナルデータは当時から外付けHDDに保存・整理していたがその外付けHDD自体が見つからない。今まで仕事で使ってきたHDDは少なくとも30台近く。そのうち15台くらいは手元にあって直近10年間くらいのデータはすぐにアクセスできるがその前10年分くらいがどこにあるか全く分からない。市川市から現在の川越市に移った時にどこかへ紛失してしまったのか?それすら記憶にない。

仕事のデータは10年以上前のオリジナルデータが必要になるケースはほぼない。だが今回のようなプライベートのデータが無くなってしまったのには参った。訪れた3か所の灯台は北海道の石狩灯台、日和山灯台、そして和歌山県の潮岬灯台。今となってはどれも思い立ったらすぐに行ける場所ではなく残念でならない。撮影仕事の帰りに訪れた為にその時の仕事のデータと一緒に無くなってしまったようだ。

こういうことになるとデジタルデータは儚い。フィルムは20年以上前のものでもフィルム自体が物理的に残ってさえいればデジタルデータ化すれば蘇る。今回は自分に非があるのだが諦めきれずに探した結果、10年以上前に灯台のホームページを作成しようとした折、そのサイトデータ内にリサイズされたデータが一部残っていた。残念ながらあまりにも小さいサイズなのでウェブページでの公開には絶えないがこのブログ程度ならばと備忘録的にここでアップしておきたい。

灯台は撮影に行くこと自体がなかなか大変な被写体でしかも天候や時間帯によって良い表情が撮れるかどうかは運次第のところがある。ゆえに良いカットが撮れるとそれはそれは大切なカットになる。なぜそんな大切なカットを紛失してしまったのか??ということだが本人が一番ショックを受けて情けない気持ちなのだ。この中には納得のカットも数点あるのに何とも複雑で悲しい気持ちなる。

フィルムのポテンシャル

昨日、灯台アーカイブのウェブサイトを開設して様々なご意見を頂いた。その中で気になったのがフィルムのポテンシャル。ご意見の中に「粒状感があって映画っぽくて良い」というコメントがあった。自分は24インチのツインモニターで作業をしている。その環境で最終確認をしているが画質的にはほぼ問題は無かった。

ご覧になったお仲間は写真仲間なので27インチで見たという方が居て同じような環境でご覧になっている方も多いと思う。イラストレーターの相方殿もマックの27インチで見て画質的には全く問題無いようだった。印象としては画質よりもむしろフイルムっぽさに高評価を頂いた。

自分としてはスキャン後の画像にノイズがかなり見られて少々不安に思っていた。それに加えて老眼鏡を使用している眼の衰えは否めず、微細な部分のピントとノイズの見分けが実は自信がない時がある。そこで意外な評価を頂いて改めて見直すと確かに適度な粒状感は大画面でも悪くない印象だ。

デジタルのキレキレの画像に慣れた眼には適度な甘さとノイズは生理的に好ましいのかもしれない。それに加えてフィルムの高いポテンシャルだ。映画の世界でも大昔のフィルムのデジタルリマスター版の画質の素晴らしさと得も言われぬ柔らかさに驚く時がある。今回のスキャンはα7R3の最高画素数4200万画素で取り込んだ。

理論的な裏付けはないが高画素での取り込みに対してフィルムがまだまだイケるぜ!と言っているかのようで改めてフィルムのポテンシャルを見直した次第。昨今のデジタルカメラの超高画素化は人の自然な感覚とはどんどんかけ離れて行っているのかもしれない。そんなことを感じた。

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6