人類の財産

自分のブログ内でよく出てくるフレーズ「ライカレンズは人類の財産」なぜそんな考えに至ったのか?あるレンズとの出会いがきっかけだった。2008年10月、Summilux-M 35mm f1.4 ASPHERICALとほぼ等価交換の形でThambar 90mm f2.2が手元へ来た。今振り返ると高騰して信じ難いプライスとなってしまった巷では伝説?の初代非球面Summilux-M 35mm f1.4 ASPHERICAL!を交換とは言え、手放してしまったことは惜しいことをした。

それはさておき、このThambar 90mm f2.2だがそんな伝説の玉と交換するに値するほどのコンディションだった。レンズ本体はガラスも筐体も美しく、付属品の純正フード&FRキャップ、そして専用フィルタも美しい状態で最近ではあまり目にしない元箱の赤箱が揃い、さらにこれが一番驚いた一品、1937年!NEW YORK LEITZ発行(Printed in Germany)の解説書!まで揃っていた。

行きつけだったショップのスタッフによると前のオーナーが几帳面な方で本体自体の保管も良く、解説書はクリアファイルに納めて保管していたそうだ。それらが全てほぼミントコンディションで揃っていた。これほどのThambarは後にも先にもお目にかかっていない。この当時のライカレンズはブラックペイントだがエナメル調の光沢が強い仕上げで指標類は彫り込みの中に白と赤と黒塗料が塗られ、まさに工芸品の様な美しさがある。

12年間でM8、M8.2、M9、M9-P、M-P、そしてM10-Pとボディは変わってもThambarの写りは変わらず、数年前に銀座の匠にオーバーホールを依頼して現在もベストコンディションを保っている。生産されて80年以上を経てデジタル時代になっても写りは変わらず健在ということは驚くべきことで同時につくづく幸せな時代に生きていると思う。

このレンズ、ライカ使いなら一度は使ってみたいソフトフォーカスレンズとして有名だがSummaron-M 28mmと同様にMマウントとして復刻してしまったので希少価値は薄れたかもしれないがオリジナルとして長きに渡って戦禍や災難を潜り抜け、光を通してきた時間は消えることは無い。これほどのレンズを自分の代だけで終わらせるわけにはいかない。次の世代へと引き継ぐべき「財産」と考えるようになった。

ライカオールドレンズの定めとしていずれ自分の元を離れる時が来るとは思うがこのセットが欠けることなくこのまま引き継いでさらに次の世代へと繋げてもらえるユーザーに託すことが今の願いだ。

12年を経たパートナー Thambar 90mm f2.2

12年を経たパートナー Thambar 90mm f2.2

演算装置?

メディアアーティストの落合陽一氏がライカ使いということは以前から知っていたが最近の氏のYouTubeチャンネル「落合陽一録」でノクチルックスを彼らしい感覚・論理で語っていて非常に印象的だった。

氏はかなり多くの新旧ライカレンズをお持ちでその中でも50mmが好きで特にノクチルックスがお気に入りで初代f1.2の正しいレンズ?と不良品?の二本、球面タイプのf1.0、そして最新の非球面タイプf0.95の各一本、計4本のノクチルックスをお持ちらしい。

落合氏に依るとレンズとはアナログの演算装置というふうに捉えていて例えばオールドレンズの滲みや収差から来る写りをコンピュータで計算すると膨大な処理と時間を要する。そういう視点で言えばレンズを通った光をフィジカルに画像に変換するレンズは処理能力の早い演算装置だと。

また、初代f1.2の不良品はなぜか後玉が逆に付けられていてボヤボヤの写りの珍品で我々の感性からだと即売却対象になってしまう代物だが、それが演算と言う視点ではこれを再現するにはさらに大変なことであえてそういう写りのレンズは貴重で大切にしていると。これは目から鱗!

その他、色々と氏独特の論理はなかなか新鮮でこういう切り口でライカレンズを語った人は初めてだ。翻って自分はライカレンズをどう捉えているか?以前にも書いたが自分はライカレンズは人類の貴重な財産だと思っている。今のひと時だけ自分が預かってその時代の光を記録している。

いわゆるライカオールドレンズは様々な人の手を経て想像すら出来ない数の光を刻んでいる。最新のレンズは開発者たちの究極の写りに対する強い情熱が込められている。その分超が付く高価だが・・いずれも目には見えないが何かを持って今日まで生き続け、新たに生まれてきている。

落合氏に比べれば自分は非論理的で感傷的だがライカレンズはそう思わせる何かを内包していると感じている。それが自分の被写体へのアプローチに少なからず影響していることは事実だ。自分にとってのライカレンズは目に見えない力が作用する第二の眼だ。

LEICA M9 / NOCTILUX-M 50mm f1.0 @2011 SUMMER

LEICA M9 / NOCTILUX-M 50mm f1.0 @2011 SUMMER

MONOCHROME

Camerahollics Vol.3「鮮やかな、モノクローム」が発売日には届いていたが昨日サラッと目を通した。全編ほぼM10-M(モノクローム)特集!この特集でどれだけの方が購入してしまうのか?自分もその罠にハマらない自信はない。M10-Mは発売日当日に友人から実物を見せてもらい、そのあまりにも地味で素っ気ない外観に食指が動かなかった。自分はやはり軍幹部の筆記体leicaロゴが無いと満足しない派という一点だけでかろうじて留まっている。

モノクロームは歳を経れば経るほど奥深さを感じる。M10-Pの撮影設定は常にRAW+JPG撮影でモノクロームを現像する場合はCapture Oneで基本補正後にブラック&ホワイトの感色性6色をモノクロフィルタ感覚で補正、少し色味を加えたい場合はスプリットトーンでハイライトとシャドウの色相と彩度を補正してその時々のイメージに仕上げている。

この補正方法はカラー情報を持たないM10-Mでは物理的に使えない。M10-Mのユーザーが同様の補正をしたい場合はモノクロフィルムのカラーフィルタによるアナログ補正しかない。自分の場合はかなり細かく各色を補正するのでおそらくカラー情報を持つM10-Pの方が合っている気がする。ただし、M10-Mのモノクローム4000万画素の世界は覗いてみたい気がする。

モノクロームは色を持たない分、感じ方は人それぞれ。鮮やかな色を持った光景がモノクロームの持つ造形や光をストレートに伝える力によって違う価値が生み出されることは大きな魅力だ。車が買えるほど高価なモノクローム専用カメラを作ってしまうライカはある意味クレイジーだが、国産メーカーが短いサイクルで多機能過ぎるカメラをリリースし続けるのを見るにつけ、ライカは生き残る術を知っているように思う。

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6

フィルムのポテンシャル

昨日、灯台アーカイブのウェブサイトを開設して様々なご意見を頂いた。その中で気になったのがフィルムのポテンシャル。ご意見の中に「粒状感があって映画っぽくて良い」というコメントがあった。自分は24インチのツインモニターで作業をしている。その環境で最終確認をしているが画質的にはほぼ問題は無かった。

ご覧になったお仲間は写真仲間なので27インチで見たという方が居て同じような環境でご覧になっている方も多いと思う。イラストレーターの相方殿もマックの27インチで見て画質的には全く問題無いようだった。印象としては画質よりもむしろフイルムっぽさに高評価を頂いた。

自分としてはスキャン後の画像にノイズがかなり見られて少々不安に思っていた。それに加えて老眼鏡を使用している眼の衰えは否めず、微細な部分のピントとノイズの見分けが実は自信がない時がある。そこで意外な評価を頂いて改めて見直すと確かに適度な粒状感は大画面でも悪くない印象だ。

デジタルのキレキレの画像に慣れた眼には適度な甘さとノイズは生理的に好ましいのかもしれない。それに加えてフィルムの高いポテンシャルだ。映画の世界でも大昔のフィルムのデジタルリマスター版の画質の素晴らしさと得も言われぬ柔らかさに驚く時がある。今回のスキャンはα7R3の最高画素数4200万画素で取り込んだ。

理論的な裏付けはないが高画素での取り込みに対してフィルムがまだまだイケるぜ!と言っているかのようで改めてフィルムのポテンシャルを見直した次第。昨今のデジタルカメラの超高画素化は人の自然な感覚とはどんどんかけ離れて行っているのかもしれない。そんなことを感じた。

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6

LEICA M10-P / SUMMARON-M 28mm f5.6